行人 / 夏目漱石
もの悲しくなった。
私は元来漫画や本など、話を読むとそれを引きずりやすい。
話の中の人々に感情移入し、実際身近で起こることより身近に感じてしまう。
夏目漱石の話は、なんとも山のないものに思える。ただそこに存在している事実を聞いているような感覚になる。
私は本を書いた人の生又は死がつまり、知の満ちたものだと考えている。漱石の断片がつまった言わば人みたいなものだと思う。
本を読むことは会話することと似ている。
強烈に残る最後のHの手紙は、なんとも穏やかで丁寧で、安心できる。その安心に潜む一郎の不安定で悲しい孤独は、なんともいいがたい。言葉にできない不安を感じる。
一郎は、それをずっと一人感じていたのかと想像すると、よりもの悲しい気持ちが湧いてくる。
人は自分より、他者が理解しているという言葉があったが、私はそれに賛同する。自分はよくわからない。他者に写る自分こそ、自分の真実なのかもしれない。
この話は自分を理解していない人が多いと、解説するの方もいた。
それが事実であり、この話が生々しく、恐ろしく静かにリアリティを持って迫ってくるのはそれが実際の人の営みだからであろう。
静かに、確かに、そこに存在する。知を求める人間と、賢さと幸せの反比例。
考えれば考えるほど、人生はつまらなくなると、どこかで聞いた気がする。
なにをとってつまらないとするかは、分からないが、確かに知に溺れた一郎は知という中に埋まり、孤独と矛盾に苦悩している。
それを一番真摯に受け止めているのは作中でHだ。骨肉を分けた家族でも、細君でもない。
それを思うと、結婚や家族の制度は、果たしてなにを補う為にあるのだろう。
また二郎は三沢の入院中、あの女について三沢と話している。そこには性による微妙な戦いが生まれている。それはどちらが惚れたか、という問題よりも、友人としての二郎と三沢の関係に女という異性をどちらも招きたくなかったような気がする。
一郎もまた、兄弟である二郎を信頼しており、細君を信頼していなかったように感じた。
そして最後も、一郎はHという同性に助けられている。
性とはなにを示すのだろう。なにを隔てているのだろう。
不思議でならない。
ちなみにこれをずっと「ゆきびと」と呼んでいて、「こうじん」ということを知ったのが一番の衝撃だった…恥ずかしい…